wherever whenever “ALOHA” ピチレムの少女。

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パタゴニアアンバサダー、 岡崎友子氏のAloha。
世界中を旅している彼女だからこそ、旅先で出会う”Aloha”にインスパイアされる数々の物語。
Alohaはハワイだけの習慣ではなくて世界中にある。

Alohaというとフラガール、ハワイのトロピカルな雰囲気を思い起こす人も多いでしょう。
でも実はアロハの精神ってハワイでアロハスピリットと呼ばれているだけで、世界中にあるもの。
言葉が違うだけで誰もが持っていて、感じていて、人に与えているとっても大切なものなんだと思います。

尊敬する身近なハワイアン、レラサン、ジェリーロペス二人ともアロハについて全く同じことを以前言っていました。

“To give with no expectation of return and give and give till you have nothing left.”
なんの見返りも考えることなく与え、与え、与え続け、自分に何も残らなくなるまで与えること、それがアロハの精神。

全ての人がそういう精神で生きていたら、
お互い与え続け、誰もが満ち足りて生きることができる。
なかなか現実にはそう簡単にうまくいかないが、ハワイには自分の持ち物、というコンセプトがあまり昔はなかったのかもしれない。
家も、持ち物も、土地も全てそれぞれ個々のマナを持ち、自分の持ち物ではなく、自分がこの世にいる間、自然から与えられ、貸していただいているものなのだという意識があれば、
また次の世代もその恵みを受けられるよう大事にする。

予想もしなかったシチュエーション.

それが思いがけない出会い、特に旅先でそんなアロハスピリットにふれると、普段以上に心にその思い出が残ります。

“ピチレムの少女”

20年も前のこと、当時南米、それもチリに憧れていて、でもチケットが30万円以上していたのでマイルでいこうと決めて貯め続け、ある夏の終わりに念願の南半球へと飛びました。

地球の反対側はちょうど冬が終わりに近づいている頃だったので,
スノーボードとウインドサーフィンの道具両方を持ってほとんど予備知識もないままの一人旅。
上空から見下ろした雪に覆われた壮大なアンデス山脈は今でも印象に残っています。

スペイン語も話せず、混乱した街の交通にビビりながら近辺の山を滑ってから海へ。
当時のチリはサーフデスティネーションとしては知られていなかったので、
唯一の情報はマウイに友人から聞いたプンタデロボスという波が立つ場所があるピチレムという街のことのみ。

海沿いの途中道がなくなってしまうのではないかと心配になるような道を延々と一人走り、
そろそろまずいかなあと思い始めた暗くなった頃にやっと目的地に着いた。
今では有名になった、その場所ではあるけれど、
当時町外れにあるプンタデロボスの波はいつ行っても人気がなく、波の大きさもとても私が乗れる気がしないビッグウエイブばかり。
街の前にあるポイントですら大きすぎてなかなか出る気になれないほどで、そこも地元のサーファーが4、5人いるだけ。

車でウロウロしていると、道端で3人の子供達が遊んでいました。

私に興味があって、
こっちをチラチラ見ているけど、恥ずかしがって近寄ってこない。
私は持っていた秘密兵器(いつ子供に会ってもプレゼントできるように旅には常にステッカーを持参している)をプレゼントし、
片言のスペイン語と身振りでやりとりするうちに向うも打ち解けてきてくれました。

私がサーフボードを車の上に乗せているのをみて、
自分のお兄さんもこの町では一番上手いサーファーなんだと少女がちょっと誇らしげに教えてくれました。

私の見せたビーチグラスの写真に興味を持った少女は私の手を引っ張って彼女の家まで連れてきて、
奥に入ったかと思うと、箱を持って出てきました。その中には彼女が今まで集めてきた珍しそうな石のコレクションがきちんと並べて入っていました。

共通の趣味があることで私たちの距離は一気に近づきました。
彼女はその中の一つを私にプレゼントしてくれたので私はビーチグラスの写真をプレゼントし、新しい友情の証を交わしました。

しばらくするとその少女は母親に何かを頼んでいるように話をしていて、
その後私のところに来て、明日ランチを一緒にどうかと招待してくれました。

翌日お昼頃彼女の家に行くと、
その簡素な作りのバラックには複数の家族)が住んでいるようでした。

テーブルを囲み、お父さん、お母さん、そして彼女と弟、そして地元で一番上手いサーファーとして知られ、
とにかくサーフィンに熱を入れているという彼女の兄の他に親戚らしい人たちが数人、
少女の兄はサーフィンから戻って来たばかりなのか外に濡れたウエットが干してあり、無口でほとんど口をきかなかったけれど、
目の光の強さが印象的で、食べ終わったらまたすぐ海に出かけたようでした。

食卓にみんな揃うとまず私の前にだけ小皿に小さなサラダが出され、
その後各自にスパゲティーが配られました、具も入ってないようなシンプルな味付け。
でも食事の内容ではなく、私にとってその時のパスタランチは忘れられない食事の一つです。

お父さんが私に「食後はティーにするかコーヒーにするか」と聞いたので、あまり考えずに
「どちらでもいいけど、じゃあ、コーヒー」と答えたら。
娘に一言声をかけ少女は何処かに出かけて行き、その後20分ほど帰ってきませんでした。
少女はワンカップ用のインスタントコーヒーのパッケージ一つだけを買いにお使いに行き走って帰ってきて、お母さんはお湯を沸かし、そのパッケージをカップに入れてお湯を注ぎ、私に手渡してくれました。

コーヒーはおそらく贅沢品で彼らには普段食後にお茶を飲むような習慣はなく、
わざわざ私の一杯のコーヒーのために少女を使いにやらせてふるまってくれたことに私はそのことに気づかず申し訳ないと同時に心が震える思いでした。

彼らができるだけのことをして私をもてなそうとしている気持ちは私の心に温かく突き刺さりました。

20ほども年が違う少女とは波長が合うのをお互いに感じとり、住所を交換し、その後4、5年文通が続いていました。
彼女はスペイン語で書いてくるのでスペイン語がわかる友人に訳してもらい、また自分の書いたものをスペイン語に訳してもらって送ったり。
その後連絡が少しずつ途絶えていってしまったけれど、少女が一生懸命に私に手紙を書いてくれる様子や、
あのチリの海辺の町で成長している様子を思い浮かべる事ができ、彼女のおかげでチリという国が大好きになりました。

ピチレム以外にも各地を訪れ、素晴らしい雪山を滑ったり、大きな波でウインドしたりもしたけれど、
あの時のランチ、少女と家族の暖かいもてなしはチリに滞在していた数週間の中で一番心に残っている思い出です。
予想もしていないところで思いがけないタイミングで、見知らぬ人から受ける親切や温かい気持ち、これが旅を素晴らしいものにしてくれる。

あの少女とその家族は多くを持っていなくても大きなインパクトと愛を人に与えることができることを教えてくれました。

後日談になりますが、
それから10年以上経ってから、パタゴニアで同じようにアンバサダーをしているチリのビッグウエイブサーファー、レイモン・ナヴァロがピチレムの出身だということに気づきました。
彼のぎょろっとした目の光の強さで、私はっとしたのですが、よく考えてみたら、年齢的にもあの時20歳くらいだった少女の兄、街で一番上手いサーファーだった彼に違いありません。あの当時あの街からプロサーファーが出てくるなんて誰が想像できたでしょう?

サーフィンに明け暮れながらも自分の育った海を大切に生きていた彼は今やプロサーファーとしてだけでなく、チリの環境アクティビストとしても活動し、チリの自然を守ろうと頑張っています。

岡崎 友子
鎌倉で生まれ育ち、16歳でウインドサーフィンを始め、すぐにその頭角を現すとプロウインドサーファーとして世界を回り始める。
1991年にはウェイブライディングの世界ラインキング2位という結果をもたらし、
そのほかの多くの大会でも決勝進出など活躍する。
ただし、その後に気の合う仲間たちと良い波や風をもとめて旅をすることの方が点数を稼ぐよりも楽しいと思うようになる。
その後は、ウインドサーフィンに限らず、
スノーボードではアラスカやそのほか多くの大きな山を滑る初の日本女性スノーボーダーとなり、
カイトサーフィンでは女性のパイオニアとして世界を旅し、スタンドアップパドルでは、波乗りやレースを楽しむとともに長距離レースやダウンウインドレースのサポートもして、道具が変わってもいい波や風、雪を求めて旅を続けるスタイルは変わらず。
旅や出会った人たちから受けるインスピレーションをテーマにフリーランスのライターとしても活動中。
また、女性のためのウィンド/カイト・キャンプにも情熱を注ぎ、「海は想像以上のものを与えてくれる」と彼女は確信している。
ブログ:http://windmaildiary.blogspot.jp